たとえばあの日、自分が死ぬ運命でなかったとしても。
この手を取っただろう。




ぬくもり




広い広い草わらの、あまり高くはない丘の上に座ってぼんやりと景色を眺める。
地平線いっぱいに伸びる緑の大地は、ただただ平和で綺麗で、眼下に広がる森もなにもかもが一枚の絵のようだった。
いつも見ている景色だが、ここにくるたびクロームはこの景色に見入る。
ここは、彼女がなにより信頼し、心を預ける人物が生み出した世界だから。
「そう言ってもらえるのは嬉しい限りですね」
不意に投げかけられた声に、クロームは小さく傍目にはわからない程度に表情を和らげる。
それは、彼女をよくしるものでなければ気づかないくらい、小さな小さな変化だった。
「お前に喜んでもらえるなら、この世界にも少しは意味があるというものです」
回りくどい口調にも、彼女は小さく微笑むだけだ。
傀儡として、手駒として、扱うだけのはずだったこの少女を、一体いつからこんなにも大切に扱うようになったのかと考えるときがある。
けれど考えたところで、一度胸に生まれてしまったこの想いが消えるわけでもないし、消してしまいたいわけでもない。
真っ白のワンピースに包まれた華奢な身体も、短くなってしまった黒髪も、ふっくらとした頬も口唇も、弱々しそうに見えて実は強い心も、すべてが愛しいと思ってしまったら、もうどうすることもできないだろう。
「骸様、ここは穏やかで綺麗ですね」
雨もない、嵐もない、移り変わることのない世界をじっとみつめて、クロームが言う。
けれどその声には、常の彼女には珍しく険を含んでいた。
おやと思ってみれば、後悔にかクロームの頬が少し赤くなっていた。
「……ごめんなさい。私」
「いや、いいんですよ。お前がそういう感情を表すのが、珍しいと思っただけです」
言いながら、クロームの隣りに腰を下ろした。
短くなってしまった髪の毛が、さらりと揺れる。
「お前が気にしているのは、僕の境遇ですか?」
問いに、クロームはわずかに表情を翳らせた。
肯定とも否定とも言えない顔だ。
「まあ確かに、自分の置かれている状況を思えば、この世界はいささか不謹慎に思うのかもしれませんねぇ」
「違う、そうじゃないの」
首を振った彼女は、ひざを抱えて黙ってしまう。
いったいどうしたのだろうと思い、そっと顔を覗きこむがふいっと顔をそむけられてしまう。
どうしたものかと頭を悩ませてみるものの、それさえ愛しいと思うのだからしょうがない。
「クローム」
そっぽを向いたお姫様の機嫌を、どうとるか考えることさえ楽しい。楽しくて仕方がない。
新しい扉を開いてしまったようだと思いながら、骸はそっとクロームの肩を抱いて引き寄せた。
柔らかく温かいクロームの身体をすっぽりと抱き寄せれば、戸惑った声が自分の名を呼ぶ。
「骸様、あったかい……」
ぽつりと呟いた彼女は、ぎゅっと骸の背中に腕を回してきた。
おやと思いながら役得だと、骸は調子に乗る。
そっと彼女を抱き上げて自分の膝の上へ座らせると、しがみついてきたままのクロームの頬をそってのひらで包んで、自分の方を向かせた。
頬が少し紅潮しているが生まれつきらしいから、それで彼女の感情を読み取るわけにはいかない。
嫌がる素振りをみせない辺り、どんどん調子に乗ってしまいそうだがそれは我慢して、骸はあくまでも優しく穏やかな紳士面をみせてクロームに笑いかけた。
千種あたりがみれば、
「そんな変態みたいな体勢になっておいてなにが紳士ですか」
と突っ込まれそうだが、ここに千種はいない。
「……クローム?」
頼りなげな肩がか細く震えている。
骸にしがみつく腕に力が入っている。
「骸様は、ここにいるのに」
悔しさのにじむ声だった。
不謹慎云々は冗談だったが、あながち外れてもいないのかもしれない。
自分はここにいるが、本体は今も暗く冷たい場所で眠りを余儀なくされている。
「骸様はひとりで寂しい思いをしてるのに、どうしてこんんなにこの世界は優しいの?」
真っ直ぐすぎる視線は、やましいことばかり考えている骸には痛いくらいだったが、そんな素振りも見せずに骸は優しくクロームに笑いかける。
「お前がいる世界だからです」
「……私の、せい?」
ショックを受けたように目を見開くクロームに、諭すように首を振ってみせた。
まったくこの少女は、自分には価値がないものだと思い込んでいる節がある。
そうではないのに。
「お前はもっと自惚れるべきですよ」
「?」
小さな顔を包む手のひらはそのままに、骸はそっと彼女の額に口付けを落とす。
さらりとした髪の毛は、ひんやりとしていて心地がよかった。
過去にキスは挨拶のようなものだと教えたら、沢田綱吉の頬に口付けるというハプニングがあったが、あのあとちゃんと自分以外の人間とキスはしないよう言い含めたのは、いまではいい思い出かもしれない。
頬を包んでいた手を離し、少し長めの前髪をさらりとかきわけて言う。
「この世界が僕一人のためのものなら、別にどんな世界だって構わないんですよ」
「じゃあ、どうして?」
「お前が大切だからです」
にこりと笑えば、クロームが驚いたように骸をみた。
何度でも何度でも、言葉にして伝えよう。
自分が彼女をとても大切に思っていること、道具でもなく、仲間としてでもなく、ひとりの少女として愛しく思っていること。
「そうですね。もしも僕とともに過ごす世界を、お前がイメージ出来るとしたら、どんな世界を望みますか?」
「骸様が、喜ぶような世界がいいです」
即答され、骸は充足感で胸がいっぱいになる。
本当にクロームのすべてが自分で埋め尽くされているとわかるから、それがたまらなく気持ちいいのだ。
若干変態的であるという自覚はあるが、いまさら他者の目線を気にかけるような繊細さもなければ、恥ずかしいこととも思わない。
あのとき出会えたのが彼女でよかったと、こころからそう思う。
でなければ骸は、彼女を知らぬまま暗い闇の中に身を投じていた。
「僕も、お前と同じ気持ちなんです。共に過ごす場所ならば少しでもお前が喜ぶ世界を、望む世界を、みせてやりたいのです」
そう、だからこそこの世界は美しい。
本当は血なまぐさい世界も、出口のない世界も、彼女には似合わなくて、光あふれる世界にいさせてやりたいと思うのに、手放すと言う選択肢だけは選ばないだろう自信もあった。
自分の執着心の強さなど、とっくに承知している。
けれどクロームは、骸の手を取ってふるふると首を振った。
「違います、骸様」
「というと?」
「私は、ここがどんな世界でもいいの。骸様といられることの方が大事だから」
きっぱりと告げられた言葉に、骸は目を見開く。
体温がどんどん上昇していく感覚に、思わずクロームの手ごと自分のてのひらで口元を覆った。
どくりどくりと心臓が鳴るのは、身が打ち震えるのは、歓喜のためだ。
「……変なことを言って、ごめんなさい」
するりと骸のてのひらから、白く小さな手が逃げていってしまう。
なにを謝ることがあるのかと、骸はクロームの手をつかまえるとその甲に口付けた。
「骸様?」
「変なことじゃありませんよ。もっと聞かせてください」
ちゅっと軽い音をたてて、骸はクロームの手に幾度も口唇を落とす。
愛しい、愛しい。もう他にどんな言葉が当てはまると言うのだろう。
抱きしめる。口付ける。言葉を交わして笑いあう。
そのすべてが叶うのに、本当の意味で彼女と触れ合うことが出来ないのは、どういうことだとも思う。
「私、あのとき骸様に拾ってもらえて本当によかった。死ななくて、よかったって、思います」
静かだが、ずしりと重みのある声に骸はクロームを抱きしめた。
ああ本当に、奇跡みたいな出会いだったんだと思う。
あの日出会わなければ、自分は彼女をしらないまま失っていた。
「骸様と出会ったから、私は、ひとが温かいことをしったの。ひとに優しくされたら、心が温かくなることをしったの」
抱きついてくる彼女の仕種は、こどもが親に甘えてきているもののようで、骸は少し物足りなく思いながら優しく相槌を返す。
出来ればそこは、ひとではなく骸様と言って欲しかったが。
「骸様、私は骸様になにをしてあげられますか? この温かい気持ちをもらった以上の、なにをあげることが出来ますか?」
「――」
思わず息を飲んだ。なにを、なんて。そんなの。
「必要ありません」
ぴくりとクロームの身体が震える。
誤解させてしまったようだと思ったが、それさえも嬉しいことだと思えば、もう笑いしか出てこない。
けれど、悲しませるのは本位ではないから、優しくその背を撫でて骸は言う。
「お前がいてくれること。犬と千種がいること。それだけで僕は十分です」
本音を言えば、生身の身体でクロームを抱きしめたいのだが、それを口に出してしまえばきっと悲しげな表情を浮かべるから。
「……随分、甘くなったものですね僕も」
吐息に乗せた言葉は、思った以上に腑抜けた声だった。
けれど、それでも。
このぬくもりが腕の中にあるというなら、それも悪くはないと骸は小さく小さく笑った。






END

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「骸さんは変態!」
それを合言葉に頑張りました。
もっと頑張りたかったなんて、なんて…!(笑)

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